昭和45年1月9日 朝の御理解    (末永信太郎)   №45-熊01

御理解第81節
 氏子十里の坂を九里半のぼっても安心してはならんぞ。十里をのぼりきって向こうへ下りたら、それで安心じゃ。気をゆめると、すぐに後へもどるぞ。



 まあ、色々に頂いておりますが、今日は一番最後のところに、すぐに後へ戻るぞというところに焦点をおいて、お話をしたいと思います。すぐに後へ戻る、と。これは何のけいこによらずですけれども、ちょっと稽古の油断をいたしますと、せっかく習うておったもの、覚えておったものまで戻してしまいます。
 これは、もう、何の道でも同じことが言えると思いますですね。ですから、後へ戻らない、戻さないために、絶えず精進しておくと言うか、絶えずけいこしておくと言うか、まあ、言うならば、絶えず心を神様へ向けておくという姿勢が大事なのです。同時に、戻らないと言うために、まあ、ブレーキをかけておくとか。ね。例えば、車なら車でも、坂道などに止める時には、車の下にちょっと石垣が敷いておきますと、後へ戻りませんように。そういう、やはり、ちょっと工夫をしておかなければいけないと思うですね。
 昨夜、青年会の初の例会でございまして、例会の後に、まあ、新年会風のですわね、まあ、カクテルパーティー、あの、大変にぎやかなことでした。夕べ、おそらく二時頃まで騒いでおったようです。私もしばらく仲間入りをさせて頂いた。一緒ににぎおうて、賑わせて頂いたんですけれども。あの、カクテルというのは、その、いつ飲んでも、何ですかね。いつ酔うたとも分からんように酔ってしまうとですね。
 お酒が薄くしてあるだけではなくて、色んな味がつけてあったりしますから、まあ、口に大変美味しいし、自然、がぶがぶ飲んでしまって。そして、いつの間にか足を取られるぐらいに酔ってしまう。夕べも、やはりそんな訳で、私ちょっと、まあ、一足先に休ませて頂きましたけれども、だいぶん酔うとる。
 はあ、あのくらいなことで、こんなに酔うかと思うくらいに酔うておりました。けっきょく、その、油断です。結局その、甘いから、飲み良いからに釣られて、そして、実際のアルコールも相当に入っとるもんですから、やっぱり酔っ払ってしまうのですね。はあ、これは甘いから、飲み口がいいからと、はじめ思うとけばいいんですけれどもね。そすと、ブレーキがかかるのですけれども、そこんところを、ちょっと油断しておりますから、その、ついつい甘口に釣られて酔っ払ってしまっておる。
 これは、私どもがですね、そういう甘いというか、いわば、楽な方へ楽な方へということは、もう、誰でも気がそちらの方へ向いたり、緩んだりするもんです。ね。自分の(ほどと?)下り坂は急がんもんなおらん、というようなことを申しますが、私どもが、日頃信心のけいこさせて頂く者がですね、その、自分のことは確かに誰がどう言われんでも、言わんでも、急がん者はない、と。ね。
 ですからね、絶えず、その自分のこと意外、ね、のところへですね、信心の焦点を置いておくと、大変その辺が間違いがないようですね。自分のことは、大抵、たとえば神様に御祈念をするでも、大抵願いようであっても、願いよります。ね。もう、言うならば、信心さえ、こちらが頂いて行きよりゃ、願わんでも頼まんでもおかげは下さることが分かっとりますわね。
 それでも、やはり、真剣に願いよることは、自分のことだ。ね。ですから、これが、人のこととか、周囲のこと。例えば、人の世のためにとかね、世のお役に立ちたいといったような念願が、自分以外のことを願う。今年に入りまして、そのような生き方で信心をお互い進めさせて頂いとりますから、皆さん、そういう願いがだんだん多くなりました。
 隣近所の方たちのことを願われる。ね。または、今までは九州中の交通安全を願っておりましたけれども、気付かせて頂いたら、本当に日本国中のことを願わにゃならん。それは、私の願いが効果があるとか、ないとかは別として、やはり、日本国中のことを願わなければおられません、と言うて願うておられる方がありあす。それも、その、ただ願うだけではありません。口で頼むだけじゃありません。
 やはり、それには毎日、全国の交通安全ということについてのお届けをなさいます。まあ、隣近所の誰さんのことでもです、赤の他人の人のことですけれどもです、やはり、その人のために夜はお参りをさせて頂きます。その人のために、笹屋かなお初穂ではございますけれども、お供えさせて頂いて拝ませてもらいます、というような方達が段々出けてきた。
 これなんかはですね、自分のことなら頼まんでも、ね、下り坂と自分のことは、ね、出けますけれども。だから、そういう信心だけではですね、油断が出けます。いわゆる、ブレーキがきかなくなると、もう、それこそ(じだ?)走りで楽な方へ走って行ってしまいます。ね。そして、向こうの方にがけっぷちなんかがあると、もう、そこへ、もう曲がり合わせずに、崖の方へ飛びこむようなことにすら、まあ、成りかねないわけなんですわね。けれども、少しは無理、少しは私には、やはり、まだ無理だけれども、ね、そのような願いを立てるとか、祈りを持つといったようなことは、非常にそういう信心の一つのブレーキになるように思いますね。やはり、工夫しなければいけません。
 まあ、すぐに後へ戻るということですから、私どもが、これは、けいこを怠りますとです、例えば、こう朝の御祈念などに、ずっとこうお参りなさっておられますでしょう。ほれは、もう、めきめき信心のいわば腕が上がります。ですから、これは、自分でも感じることでしょうけれども、同じ程度の信心の人がです、この頃は、あっちはずっとお参りが遠のいたなあ、と言うてご無礼しましたのと言うて、その、まあ、参って来ますとですね、もう、信心の話がですね、合わんのです。もう、不思議なくらいです。ね。
 信心のですね、その、けいこを、いわばしておる者と・・・ね。これは、すぐに後へ戻ておる印であります。けいこをちょっと怠りますと、ちゃんと後へ戻ってしもうております。ね。だから、後へ、すぐに後へ戻るぞと仰る。すぐに後へ戻らない工夫を何かに心がけさせてもろうて、例えば、先ほどカクテルを飲む時にはですね、やはり、これは甘いから、読み良くしてあるから、油断しよると酔っ払ってしまうぞという事をですね、その甘いのに騙されんようにしとかにゃいかん。
 ね、あれが苦いとか辛いとかだったら、ちびちびしか頂きませんけれども、甘いから、ついガブガブ(と飲んでしまう)。そして、いつ酔っ払ったやら分からんようにして、酔っ払ってしまうようにですね。だから、甘いこと、下り坂、自分のことには、その力は入れなくても、信心になっておれば、ね、おかげが受けられるていうことは、まあ、言うならば道理の上から言うても、お互い分かっておるのでございますから。 そういう信心が後へ戻らんためにです、少しは自分には無理だけれども、いわゆる、上り坂のほうへ向いた信心をさせて頂くということは、後へ戻らんで済む信心、油断をせんで済むおかげが受けられる。私は今日は、この81節の、すぐに後へ戻るぞというところを、今日は強調して頂いておりますから、で、そういう、そのすぐに後へ戻らん、もう、絶対に間違いがないというような信心を、まあ、身につけたい。
 そこで、どういうようなところの信心を身につけて行ったらおかげ頂くであろうかと思うて、また次にお願いをさせて頂きましたらね、御神訓の中に、道おせのたいこうの、ここの、一番はじめの一番最後のところにですね、神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと、という御教えがありますよね。みちおしのたいこうです。神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞ、と。
 ここのところがですね、本質的な意味においても分かり、また、情感の上においてもここんところが分かって来るようになると、これは、もう、例えどこにおっても、どんな甘いものであっても、下り坂におっても、絶対間違いないことになって来るんですね。だから、ここんところが、私は分かれば、いわば、もう間違いないということになる訳です。すぐ、後へ戻ると言うて、戻りようがない。いや、戻ったところのように思うておるそこにも、神様の働きが十分に頂けておるという事になります。ね。
 ですからね、ここんところを、その、まあ、本質的にですね、神はわが本体の親ぞというところがね、本質的に説明するということは、案外見やすいわけですよね。天地と私どもの関わり合い、そこから説いてくれば、はあ、なるほど親だな子だなあ。なるほど、大神霊に対する小神霊。なるほど、天地の親神様が私どもを氏子と呼びなさる訳が分かって来るですわね。本質的に、理論的に言えば、そこんところは分かるです。けれども、なかなか、それが情感の上にということは、やはり、修行しなければわかりません。ね。
 情感的なもの、ね。もう、二十年も前のことです。私、善導寺の親教会から、ずっとこう、もと秋永先生が(まあたり?)におられました時に、(まあたり)地区にお話に参りました。それから、土居地区の方には、久富正樹さんのお宅に、月に一遍ずつお話に参ります。まあ、色々な事情がありましてね、私はその日は、普通夕方から行くのを、四時か五時頃、夕方早めに行く、参りますということを向こうにも言うてあって、向こうも待っておって、頂くことになっておった。
 それは、あちら御霊さん関係のこと。まあ、その辺のことは、まあ、抜きに致しましょうかね。ですから、そのことを、私はあの、終わらせて頂いて、まあ、夕方になりました。まだ、久富正樹さんのお父さんがおられる頃でした。私が今日は一足先に行くというので、夕食ぐらい出そうと言うので、まあ、いろいろとおご馳走してございました。
 ところが、ちょうど私はその当時、その時、断食中でした。ですから、実は、私はこうやって断食させて頂いとるですから、せっかくですけども、ご無礼します、と。そしたら、お父さんが言われるのに、そげなこつがありますもんか、あんた、家中のもんがこげん真心込めて作っとるとですけん、一遍、神様にお願いばして下さい、と。違わんごとお許し頂きますよと、あんまり親切に言うて下さるもんですから、私はそれを神様に、今、久富のご主人がこうこう言われます、と。
 せっかく私のために沢山、それこそ、鶏どん殺して、その、おごちそうが出けておりました。その時分の甘い物がない時分に、牡丹餅も出けておりました。お酒のない頃でしたけれども、焼酎がちゃんと用意してございました。そして、その、まあ、私を労うて下さると言う。それで、神様にそのことをです、神様に、このように言われますから、まあ、どうさせて頂こうかと思うて、御神前に出てから御祈念させて頂きましたら神様からね、「伺う心は、食べたい心」ぞと。ね。
 お伺いをするという事はね、もう、お前が食べたいからお伺いしよるのぞ、と。本当に、いや、誰が何と言うても断食中でございますから、こればかりは、ご辞退すると言やあそれで良いのだけれども、お伺いをするというからには、もう心の中に、はあ、せっかくと、人の親切ということじゃなくて、もう、自分の心の中に、はあ、甘い物の牡丹餅も一つ食べたいなあ、お酒も頂きたいなあ、ご飯も白いご飯が今日は食べられるぞといったようなものがです、もう、私の心の中を乱しておるわけです。ね。はあ、なるほど、頂いてみればですね、伺う心は食べたい心じゃ、と。
 ですから、私は皆さんがね、色んなことをお伺いされますよ。ね。それで、まあ、例えば、それに類したようなおかげの時には、もう、お伺いをされる時にはね、例えば、ならもう、お芝居は見に行かんと立てておられる人がおられます。ところが、入場券ばもらいましたけんで、どうさせて頂きましょうかち。もう、お芝居は見らんて立てとる者が、入場券もろうたってん、行かにゃええじゃないか。それでも、やっぱり、もう行きたい心があるもんですから、入場券を頂いておることは、まあ、許されるのじゃなかろうかと思うから、お伺いをする。だから、それは、もう行きなさるが良かろうという風に、私は申します。
 まあ、その時のことが私はありますから、以来、そういう風に致します。伺う心は、もう、行きたい心である。伺う心は、もう、食べたい心なんだ。ね。はあ、ほんなこと、もう、自分ながら恥ずかしいと、こう思いましたがです、ね、神様がその、そういう風に厳しく教えて下さった後にね、せっかく久富の家でもこうやって用意しておるから、頂くようにという意味のことを頂きました。
 それから、もう、何日間も断食しとるとへ持ってきてから、お焼酎を頂いておりましょうが。もう、それこそ回りの早いこと、回りの早いことね。そして貴方もう、本当にそれこそ、(口水の足るような?)牡丹餅があるし、もう、それこそキラキラ光るような、いわゆる、銀飯ち、その頃は言いよりましたよね、白いご飯のことを銀飯て。ええ。それこそ、たらふく頂いて、一杯機嫌で御神前に出らせて頂いたですね。これは、もうお礼です。もう、それこそ、一杯機嫌、何とも言えん、その、まあ、気持ちでですね、御神前にそのことをお礼を申させて頂いておりましたらね、まあ、分かりやすく申しますとです、ね、毎晩ね、白いご飯が食べられて、好きな甘い物を頂いて、たとえば晩酌の一つも頂かせて頂いて。ね。それが十分に出けるようになることが、神の願いぞということを頂きました。
 お前が、あれも食べません、これも飲みません、こうもしませんと言うて、窮屈な中に現在あるけれども。ね。それを見ておる、じっとしておる親の方が、実を言うたら辛いんだ、と。けれども、修行だから仕方がないけれど、本当はたくさんなお金を儲かってです、ね、どんなに(ちはいけっぱい)という時でも、闇の米でも買われるようなおかげを頂いて、闇の酒でも買われるようなおかげを頂いて、闇のお砂糖でも買わせて頂いて牡丹餅ぐらい作れるくらいなおかげを頂いてです、たらふく頂いたり、たらふく飲ませて頂いても、今日もいい加減酔わせて頂いたと、一杯機嫌で神様にお礼を申し上げれるような、それが神の願いぞ。
 もう、本当に、私また、改めて酔いが覚めるように御神前でお礼を申しました。神様の願いはこれなんだ。いや、これが親なのだということです。ね。いわゆる、今日、私が皆さんに分かって頂きたいのは、ね、本質的に神と氏子とのことを説きますならば、これは、見やすう誰でも分かります。なるほど、この親であり、この子というものの、いわゆる(続柄?)関係というものをです、色んな面から理屈の上で説くことが出けて、はあ、なるほど親神様だな、なるほど、大神霊と小神霊の繋がりといったようなものを分かることは出けますけれども、分かっただけではおかげにならんのが信心なんです。
 そこにです、なら、これが情感の上においてもです、そこんところが交流するものがなからなければならん。そこに、私は求められるのが修行だと思うのです。ね。神はわが本体の親ぞ。神様はわが本体の親であらされられるのだ。だから、信心は親に孝行するも同じことぞや、である。信心はね、親に孝行するも同じことぞや、なのである。ね。
 私がこういうことをしよったら、親が嘆く。こういうことをしよったら、親が心配するというようにです、もう、それは、まあ、親と子との上においての情感から、そこんところを考えられても、まあ、お分かりになることだろうと、こう思います。
 今朝私は、お夢の中に起こされた。ちょうど目を覚まさせて頂いたら、3時20分でした。それがね、もう、それが、もう何ともかんとも言えん優しい優しい声で、母の声でですね、「総一っちゃん、眠かろうばってんから、もう、時間ばの」ち言うちから、起こしました。もう、それがね、夕べ遅くまで飲んでるし、もう、と言うのですからね、母がね、総一っちゃん、眠かろうばってん、もう時間よと言うて起こしておる。それが、何とも言えん優しい声で、ハッと思うてから、思わず、私はあの、こう座り直しました。そしたら、お夢だった。ね。
 それでおかげで、時間切らずにここへ、まあ、出て来ることが出けたわけでございますけれどもです。ね。私はその、親というものは、そんなもんだと思うですね。子供の苦労が、親にわからんはずはありません。ね。それでも、やはりね、起こさなければならん、起こさなきゃならん、と。そこには、一つの情の込もったです、眠かろうばってん起きてくれんのという、頼むようにして起こされております。
 私はそのような体験を通してですね、いわゆる、情感の上に、なるほど親だなあ、なるほど親神様だなあ、ということをいつも体験致します。ね。そこで、その親に対して、親不孝は出けないという、私は信心、ね、神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや、というような信心がです、だから、なら、本質的に理論的な上にも分からせて頂くことはありがたいこと。けれども、それをね、本当に情感の上においてもです、なるほど、親神様じゃなあと、なるほど親じゃなと分からせて頂く信心を、私は体得して頂きたいと、こう思う。そこに求められるのが、修行であります。
 そこに、私どもの上に現われて下さる神様がです、それこそ、夕べ遅かったからね、眠かろうばってん、もう時間よと、起きてくれんのと言うて、親が手をついて頼まんばかりに、例えば起こさせてもらってごらんなさい。それだけでも、起きらんわけにはまいりません。ね。
 信心は、親に孝行するも同じことぞや。ね。孝子が親に対する態度、そういう姿勢をもって、この神様には打ち向かうて参りますならです、必ず、ね、なるほど親神様じゃなあ、という印と思われるような体験が必ず頂けます。ね。そういう信心がこれに染み込んでまいりましたらです、もうこれは、ね、言うならば、油断をすると、すぐに後へ戻るぞと仰るけれども、後へ戻るということのないところのおかげが受けられます。もう、安心だというところになります。ね。
 そこんところをですね、もう少し、まあ、具体的にお話しますとね、あの、親鸞上人様と(みゆきちさん?)のお話がございますでしょう。ね。お上人様の穏座が立って、お話が毎晩ある、御法話があるわけ。それを、こうして皆さんが、毎晩毎晩聞きにみえる。毎晩毎晩、いわゆる仏様の道をお説きになる、それが有り難い。善男善女がいっぱい集まって、上人様のお話を聞く。いつも真正面に座っておるのが、(みゆきちさん)である。だから、ある時、上人様が、(みゆきちさん)に、ね、そう毎日毎日参って来んでも、という意味のことを仰られた。ね。
 せっかく、その、こうやって毎晩毎晩頂いてるその話をですね、家に帰って取り外すようなことがあっちゃならん。お話も聞かんならんばってん、家での御用も大事だという意味のことを、まあ、仰られたんでしょう。そしたら、(みゆきちさん)曰くですね。「落ちるこの身は十八願の内と思えば危なげはなし」とお答えしたということです。ね。
 せっかく、ここで極楽行きのけいこをさせて頂いておっても、家に持って帰ってストーンと落としてしもうたら、何もならんぞ、と。ところが、落ちるその身は十八がんの、というのは、十八がんというのは、その、阿弥陀如来様の御悲願という意味でしょうね。いわゆる、神の願い、神の悲願。ね。それが、十八に小分け、神の願いというものが、仏教には、まあ、分けてあるらしいですね。
 例えば、私がよし、地獄道に落ちましても、その地獄の中とてもです、阿弥陀如来様のお働きの中と思えば、危なげはございません、とお答えしたち。ね、今日私が申します、神はわが本体の親ぞということはですね、もう、落としようがないというのは、そこのことなんです。言うなら、飲みすぎてから酔っ払っておって、神様を忘れておるような状態であっても、もう、これなら大丈夫だということ、そこが分かっておれば。どこにどうおったところでです、天地の親神様のお恵みを受けんわけにはいけない私だという自覚がいつも出けておれば、いいという意味なんです。ね。
 なるほど、落ちるこの身は十八願のうちと思えば、危なげはない、とお答えした。そこで、上人様がです、それほどまでの信心が分かっておるとは、と感心された。それほどしの信心が分かっておるならばです、もう、いよいよ、(みよきちさん)、私の話を聞きに来ることはいらんぞ、と仰った。ね。いわゆる、もう、一番、奥の奥の奥義が分かってるわけですから。
 もう、そこまで分かったら、いよいよ、私の話を聞きに来ることはいらんぞ、と仰られた時に、また(みよきちさん)答えて曰くです、「親様のことを思うたら、家にジッとはしてはおられません」と答えられた。ここんところが、信心なんですよ。
 もう、私は覚えることだけ覚えたから、合楽とは、もう縁はなかと言うても良いわけです、只今のようなことが分かれば。本質的に分かるし、情感的にも分かって来たんですから。けれども、ね、言うならば、金光様が朝の四時から、ね、あのようにして私どもの為に祈り抜いておって下さる。親先生が毎日ああして御結界に奉仕しておって下さる。あのことを思うたら、一遍は出て来てから、ちょっと、ね、お伺いに、ね、ご機嫌伺いに出らなければおられない、と言うのである。
 親先生のあれだけのおご苦労を頂いておるのであるから、日に一遍ぐらいは、お礼に出させてもらわなければ相済まんというところにです、(みゆきちさん)の信心の、まあ、完璧と思われるほどしの信心が、そこにあるわけです。信心を体得する、それは、神はわが本体の親ぞということがわかる。落ちるこの身も十八願の内と思えば危なげがないほどしのものがわかる。もう、それほどしのものを頂いたんだから、参って来ることはいらんぞ、と。ああ、そうですかと言うたら、信心はないのです。信心とは、そこからなんです。ね。親様のことを思うたら、家にジッとしてはおられませんという、そこんところが信心なんですよね。
 神はわが親の本体ぞと言うのは、そのようなことだと、私は思います。ね。だから、そのようなことが、なら、分からせて頂くと同時にです、そこから展開するもの、展開して来る信心。ね。お道の中にもそのような話がありますね。近藤藤守先生と教祖様の間のことですね、参って来ることはいらんと仰る。大阪から、もう、そんなにたくさんな金使うて、毎月毎月参って来るなと仰ったけれども、ね、参らなければおられない。どんなに声荒上げて教祖様が仰っても、これだけはお許し下さい。私どもには親がない、私ども夫婦に親がないから、勿体無いことだけれども、教祖様、貴方様を親様と思うて、月の一回のこのお参りが、ね、何よりもの楽しみとしてお参りをしておるのでございますから、これだけはお許し下さいと言うて願われた。そん時に教祖様が御神前に出られて、(近藤藤守、真の信心になった」と仰っしゃられた。
 なるほど、神は、ね、天地の中に(へんまん?)してござる神なのだけれども、教祖生神金光大神は、ここ大谷しかおらんからの、と仰った。ね。(みゆきちさん)のそれと相つづるものがあるでしょう。そこに信心がある。その当時に飛ぶ鳥を落とすように、ね、山口県の周防という所に(唐ひ)という先生がおられた。もう、大変な御神徳家であった。
 やはり、毎月お参りをされた。やはり、同じようなことを言われた。ね。だから、(からい)先生、教祖様がああ仰るから、それもそうだなと言うて、お月参りを止められた。さあ、ご晩年の頃には、もう、それこそお葉を打ち枯らしたような、教会にはぺんぺん草が生えるほどしに零落されたという話が残っております。ね。体得されるものだけ体得しただけじゃいかん、信心はそこからだという事が分かるでしょう。
 ね、それが、ね、近藤藤守、真の信心になったということになる。私どもは、その真の信心を求めて、信心をしておるのでございますからね。ね。だから、神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや。神はわが本体の親ということが分かる。ね。そこにはです、落ちるこの身は十八願の内と思えば危なげはない、というほどしのものを心の中に頂いた。ところが、そこまでではいけないこと。親様のことを思うたら、内にはジッとしてはおられんというところに、信心は親に孝行するも同じことぞやということになるのじゃないでしょうか。ね。
 そういう信心を願い、そういう信心を求めての信心。ですから、私どもは、その手前の手前のずうっと手前のところをですね、すぐに戻るといったようなところの信心では、とてもとても、そういうところに到達することは、もちろん出けません。けれども私どもはです、一番はじめ頃に申しましたようにね、戻らんための色んな工夫というものをなさせて頂いて。そして、なるほど、神はわが本体の親であるというところまでです、一つ分からせてもろうて、それから先が真の信心だと一つ分からせてもろうて、信心をいよいよ勧めて行かなければならんと思うのでございます。どうぞ。